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東京高等裁判所 昭和33年(行ナ)57号 判決

原告 諸隅大助

訴訟代理人 高木郁哉

被告 高等海難審判庁長官 増田一衛

指定代理人 玉屋文男 外二名

主文

高等海難審判庁が同庁昭和三〇年第二審第七号機船文丸汽船第二拓南丸衝突事件につき

昭和三三年一〇月九日言い渡した裁決中、原告に関する部分を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一、当事者双方の申立

原告代理人は主文同旨の判決を求め、被告代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。

第二、原告の請求原因

原告代理人は請求原因として次のとおり述べた。

(一)  原告は昭和二八年一一月二二日訴外大洋漁業株式会社所有の機船文丸に船長として乗り組み、金華山東方約一三〇海里の漁場で捕鯨に従事中、右漁場において同じく捕鯨に従事していた訴外日本水産株式会社所有の汽船第二拓南丸(以下単に拓南丸という)と衝突するに至つたものであるところ、右衝突事件につき、高等海難審判庁は、原告、および拓南丸船長村野孝志、同漁ろう長(砲手)吉田恒一を各受審人とし、審理の末昭和三一年一〇月九日、「本件衝突は右各受審人の運航に関する職務上の各過失によつて発生したものである。右各受審人を戒告する。」との裁決を言渡した。

(二)  右裁決書に記載された理由は、左記のとおりである。

「船種船名  機船文丸      汽船第二拓南丸

船籍港   東京都       東京都

船舶所有者 大洋漁業株式会社  日本水産株式会社

総トン数  三百五十九トン   三百四十三トン

受審人   諸隅大助      村野孝志      吉田恒一

海技免状  甲種二等航海士免状 乙種一等航海士免状 乙種一等航海士免状

職名    船長        船長        漁ろう長(砲手)

事件発生の年月日時刻及び場所

昭和二十八年十一月二十二日午後零時四十五分

金華山東方約百三十海里

文丸は、捕鯨に従事する目的で、船首二・五〇メートル船尾四・八〇メートルの喫水をもつて、昭和二十八年十一月二十一日午後十時三十分鮎川を発し、金華山東方百海里附近の漁場にいたり、翌二十二日午前六時探鯨を開始し、漁ろう長岩本松之助(明治二十四年三月七日生、乙種一等航海士についての免許を受けており、受審人に指定されていたのであるが、第一審言渡後昭和三十一年三月十一日病死した。)が操船指揮をとり、受審人諸隅大助が船位確認や見張などにあたり、ほぼ北東(以下方位は、すべて磁針方位である。)の針路で進行中、同十時三十二分ごろ、前方五海里ばかりのところで旋回中の第二拓南丸(以下単に拓南丸という。)を認め、これに近づくため同針路のまま続航していたところ、同時五十分ごろ、左舷正横近く四海里ばかりのところにまつこう鯨一頭を発見し、直ちに機関を全速力とし、船首を左転して鯨に向け、追尾に移つたところ、それとほとんど同時に、右舷正横近く二海里ばかりのところから、拓南丸もその鯨を追尾しはじめたのが認められた。大洋漁業株式会社、日本水産株式会社及び極洋捕鯨株式会社の三社では、会社代表者及び会社所属の砲手代表者が協議の上、捕鯨操業の秩序維持と危険防止の目的をもつて、昭和二十四年四月捕鯨操業規約を締結し、これを関係者に周知させていた。同規約は、第二条に、「抹香鯨発見に関しては発見船は直ちに無線電信に依り放送するものとす」、第三条に、「抹香鯨群を発見したる場合は発見船を権利船とし権利船が現場に到着の上追尾開始してより一時間以内は他船は至近の距離において追尾或は発砲出来ざるものとす」と規定し、更に第六条に、「同一鯨を各船同時に発見したる場合は汽笛又は信号旗及無線通報により他船に発見の意志表示を最初に行ひたる船を権利船とす」と規定している。そして、従来の慣習と相まつてこの規約の上から、発見鯨が一頭である場合には、時間に制限なく、発見船に捕獲の優先権が認められ、また、権利船以外の船は、至近の距離において追尾、追越、発砲など権利船の追尾捕獲を妨害する行動をとつてはならないものとされていた。岩本漁ろう長は、右の規定にしたがい、「まつこう鯨一頭発見追尾にかかる」旨を放送させ、やがて、鯨がもぐつて見えなくなつたので、全速力のまま北西方に四海里ばかり進み、同十一時十分ごろ、鯨のもぐつた附近にいたり機関を半速力に落して旋回しながら、鯨の浮上するのを待つた。その後、岩本漁ろう長は、拓南丸も附近に来て旋回中であるのを認め、また、通信士「拓南丸も本船より遅れて発見放送を行つた」旨を聞き、無線連絡で、拓南丸に対して追尾をやめるよう要請したが、容れられず、両船とも互に捕獲の権利を主張して譲らなかつた。同日午後零時四十二分ごろ、左舷船首千メートルばかりのところに鯨が浮上したのを認め、直ちに機関を全速力にかけ、船首を左転して鯨に向け、ほぼ南西微南二分の一南の針路とし、一時間十二海里ばかりの速力で追尾を続行した。針路の定まつたとき、岩本漁ろう長及び諸隅受審人は、左舷正横前ほぼ三点に方り、千メートルばかりのところに拓南丸を認め、同船がなおもその鯨を追尾して来るのを知つたが、両人ともその後の同船の動静に深く意を払わず、岩本漁ろう長は、砲座について発砲の機をうかがい、諸隅受審人は船橋頂部で専ら鯨の動向を見守り、鯨が北北西方に一時間二海里ばかりの速力で移動するにつれ、漸次針路を右方に転じながらこれを追い、同時四十四分半ごろ、鯨に近づいて機関を半速力、つづいて微速力に落し、同時四十五分少し前、鯨との距離三十メートルばかりとなつたとき、機関を停止すると同時に発砲し、もりが命中したので、捕鯨の定法にならい右舵一杯とした。このときはじめて、諸隅受審人は、左舷正横近く四十メートルばかりのところに迫つていた拓南丸に気づいて衝突の危険を感じ、相手船に対し「危い」と叫んだだけで何ら措置する暇なく、同時四十五分、ほぼ北緯三十八度九分東経百四十四度二十分の地点において、拓南丸の船首は、ほぼ南西に向首した文丸の左舷側中央部に後方から約六点の角度で衝突した。当時天候は曇で、南の軟風が吹き、海上は穏やかであつた。また、拓南丸は、同じく捕鯨に従事する目的で、船首二・六〇メートル船尾三・七〇メートルの喫水をもつて、昭和二十八年十一月二十一日午後九時二十分女川を発し、前示の漁場にいたり、翌二十二日午前五時四十分探鯨を開始し、受審人吉田恒一が操船指揮をとり、ほぼ北東微北の針路で進行中同十時十分ごろ、左舷船首ほぼ四点に方り、三、四海里のところに鯨らしい何物かを認め、間もなく見えなくなり、それがまつこう鯨であることを確認したわけではなかつたが、直ちに機関を全速力としてこれに向かい、同時三十分ごろ、その附近にいたり、微速力に落して旋回しながら探鯨した。同時五十分ごろ、西北西方四海里ばかりのところにまつこう鯨一頭浮上したのを認め、全速力でこれを追尾しはじめたところ、それとほとんど同時に、左舷正横近く二海里ばかりのところから文丸もその鯨を追尾しはじめたのが認められた。その後、船橋で見張にあたつていた受審人村野孝志は、通信士から「文丸が発見放送をしたが、本船はどうするか」と指示を求められ、吉田受審人と協議の上、「今からでも直ぐ放送せよ」と指示し、吉田受審人は、すでに文丸が発見放送を行つて追尾中であることを知りながら、文丸よりも自船が先に発見した鯨であるから、自船に捕獲の権利があるものとして譲らず、追尾を続行し鯨のもぐつた附近を微速力で旋回し、鯨の浮上するのを待つた。同日午後零時四十二分ごろ、正船首よりわずかに右舷に方り、千メートルばかりのところに鯨が浮上したのを認め、直ちに機関を全速力にかけ、船首を鯨に向けてほぼ西の針路とし、一時間十二海里ばかりの速力で進行した。針路の定まつたとき、吉田、村野両受審人は、右舷正横前二、三点に方り、千メートルばかりのところに文丸を認め同船もその鯨に向けて進行しはじめたのを知つたが、両人とも、その後の同船の動静に深く意を払わず、吉田受審人は、砲座につき、村野受審人は、船橋で専ら鯨の動向を見守り、鯨が移動するにつれ、漸次針路を右方に転じながらこれを追い、同時四十五分少し前、鯨との距離七十メートルばかりとなつたとき、機関を微速力に落し、つづいて停止し、発砲態勢を整えているうち、本船に先んじて文丸が発砲し、このときはじめて、村野受審人は、右舷船首四十メートルばかりのところに追つていた文丸に気づいて衝突の危険を感じ、左舵一杯、全速力後退を令したが、その効なく、船首をほぼ西北西に向けて前示とのおり衝突した。衝突の結果、文丸は、衝突箇所において、舷側厚板から直下外板にまたがり最大幅二十センチ・メートルの破口を生じ、その前後四助骨間外板を附随の諸材とともに損傷し、拓南丸は、船首材中央部を約二メートル間附随の諸材とともに損傷した。

(証拠説示の部分省略)

本件衝突は、海難審判法第二条第一号に該当し、受審人吉田恒一が、捕鯨に従事中、他船と同一のまつこう鯨を発見し、捕鯨操業規約の定めるところにより、最初に発見の意志表示を行つた他船に追尾捕獲の権利が認められる場合、これを無視して至近の距離において追尾を強行したことと受審人諸隅大助及び受審人村野孝志が、両船とも同一の鯨を追尾中であることを知りながら、鯨を追うことに心を奪われ、互に相手船の動静に深く意を払わず、衝突を避けるに必要な措置をとる時機を失したこととの各受審人の運航に関する職務上の過失に因つて発生したものである。

受審人諸隅大助、受審人村野孝志及び受審人吉田恒一の各所為に対しては、海難審判法第四条第二項の規定により、同法第五条第三号を適用して各受審人をそれぞれ戒告する。」

(三)  原告は、右裁決書に認定された事実関係自体はこれを争わないが、右裁決には次の如き違法がある。すなわち、

(1)  文丸の所有者大洋漁業株式会社、拓南丸の所有者日本水産株式会社および外一社の間には捕鯨操業規約(その内容は前裁決書中に認定のとおり)が存し、右規約によれば、本件においては、最初に鯨発見の放送をした文丸が権利船で、拓南丸は避譲義務船の関係にあつたことが明白である。かかる場合文丸としては、拓南丸が右規約に従い当然文丸を避譲しその行動を妨害しないものと信ずることは、その権利であり、少くとも過失なきものというべきである。されば、文丸の船長であつた原告が白昼視界良好、なんら操船を妨げるもののない大海において、至近の距離に鯨を追うに当り、たとえ注意を眼前の鯨に集中し、拓南丸に対し特別の注意を払わなかつたとしても、これをもつて過失ということはできない。それ故、本件裁決が原告に過失ありと判断したのは違法である。

(2)  のみならず、本件において衝突のおそれが発生した時期は、両船が同一の鯨に向つて殆んど同時に追尾に移つた午後〇時四十二分であり、この時以降、拓南丸は文丸を右舷に見る関係にあつたのであるから、この場合拓南丸は海上衝突予防法(以下単に予防法という)第一九条により他船の進路を避けるべき義務船に該当し、文丸は同法第二一条により従前の針路および速力を保つべき権利と義務とがあつたのである。しかして文丸の行動は右第二一条に適合する当然の措置であつたのに反し、拓南丸は右第一九条の義務を怠つたものであるから、本件衝突は、専ら拓南丸の過失に基因するものであつて、原告にはなんら過失がなかつたものである。

(3)  仮りに百歩を譲り、原告に多少の過失があつたとしても、相手船である拓南丸は、避譲の義務があるのにかかわらず、これを怠り文丸の権利を無視して鯨の追尾を強行し、その結果本件衝突を惹起したのであるから、その過失の重大性は到底文丸のそれとは比較にならないものである。しかるに本件裁決が両者の過失につきその軽重を区別せず、文丸の船長たる原告と拓南丸側の村野孝志および吉田恒一とに対し同等の戒告を言い渡したのは、著しく権衝を失した処分であつて違法といわなければならない。

以上のとおり原告に対する本件裁決は違法であるから、その取消を求めるため本訴請求に及んだ次第である。

第三、被告の主張

被告代理人は、答弁および被告の主張として次のとおり述べた。

(一)  原告主張の(一)および(二)の事実は認める。

(二)  原告主張の(三)については、本件裁決に違法がある旨の主張は、これを争う。

(1)  捕鯨操業規約に関する原告の主張について。原告主張の如き捕鯨操業規約が存する事実は認めるけれども、右規約は原告の過失あることに対し、なんらの消長を及ぼさないものである。元来海上における船舶の衝突防止のためには、海上衝突予防法等の法律が存するのであり、海上航行に関する業者間の慣習、協定等は右法律と牴触しない限度でその効力を有するに止まり、なんら法律に優先し、法律の適用を排斥変更する効力を有し得ないものである。しかして本件においては、原告は、後記(三)に記述する如く予防法に基く義務を怠つた過失があるから仮りに原告が右規約に従い行動したものであるとしても未だ過失の責を免れることはできないものである

(2)  予防法第一九条および第二一条によつて判断すべきであるという原告の主張について。本件においては、以下述べる理由により予防法第一九条その他同法第三章「航法」の規定は適用の余地がないものである。すなわちこれらの規定は、二隻の船がそのまま針路速力を保つて進行すればやがて一点に会し、衝突の危険のあることが予測される場合に適用を見るべき規定である。しかるに本件の如く二隻の船が同一の鯨の捕獲を目的としてこれを追尾する場合においては、目標たる鯨はたえず移動し、その進行方向および速力は予知できないものである関係上、これを追尾する船は終始鯨の動静に従い針路速力を変えて行かねばならないのであり、そもそも予防法第一九条その他同法第三章の航法に関する規定が予想する場合とは前提を異にするものである。本件において両船がその船首を鯨に向けて追尾に移つた際、一見両船は予防法第一九条の横切り船の関係にあつたものの如く見えるけれども、両船の関係は鯨の動向如何によつては、いつ追い越し船(同法第二四条参照)または行き会い船(同法第一八条参照)のような関係になるやも測り知れない状況にあつたことは明白である。この場合における衝突の危険は、予防法第三章の航法の規定の予想するような一般的関係から生じたものではなく、鯨を捕獲追尾する特殊事情から生じたものである。されば本件においては原告主張の予防法第一九条の適用がなく、原告は同法第二九条の「特殊な事情により必要とされる注意」をもつて行動すべき筋合であつたものというべきである。

仮りに本件に予防法第一九条の適用があり、その結果拓南丸は文丸を避譲すべき義務があり、文丸は同法第二一条本文により従前の針路速力を保つべき関係にあつたものであるとしても、後記の如く、本件においては午後〇時四四分半頃両船の間に衝突の危険が切迫し、その際原告は同法第二一条但書ないし同法第二七条に従つて衝突回避の措置を講ずべき義務があつたのにかかわらず、これを怠つたものであるから、原告は到底その責を免れないものである。

(3)  処分の権衡を失するという主張について。海難審判法により懲戒の種類を選択するに当つては、各人毎に、その所為の軽重に照らし決定すべきであり(同法第五条第一項参照)、他人に対する処分との権衡はなんら裁決の適否に関係のないことであるから、この点に関する原告の主張も理由がない。

(三)  文丸と拓南丸の航行状況および本件鯨の位置関係は、末尾添付の別紙衝突模様図に示すとおりである。

元来、本件の如く両船が同一の鯨を追つて進行する場合船長たる原告は見張を厳にし、相手船たる拓南丸の動向に十分な注意を払い、必要に応じ衝突を避けるため臨機適宜の処置(例えば機関を停止し後退にかけ、または針路を右転し相手船から遠ざかるなど。なおそれ以前に汽笛の連続吹鳴などにより相手船の注意を喚起することも有効である。)を講ずべき義務があつたものである。しかるに原告は右義務を怠り本件衝突を惹起したのであるから、本件衝突は原告の過失によるものといわなければならない。しかして右過失の法文上の根拠としては、第一に予防法第二九条の違反を主張し、仮りに同条違反の過失が認められないときは予備的に同法第二一条但書または同法第二七条の違反を主張するものである。なお原告の過失の詳細については、末尾添付別紙被告の準備書面記載のとおりである。

第四、被告の主張に対する原告の反駁

原告代理人は、被告の主張に対し、さらに次のとおり述べた。

(一)  被告の前掲第三(二)(2) の主張について。予防法第一九条が適用されるためには、両船が「互に進路を横切る場合であつて、衝突のおそれがあるとき」であることを要し、かつこれをもつて足りるものというべきである。同条の解釈適用に関する被告の主張は法律上根拠なき独断である。

(二)  被告の前掲第三(三)の主張について。これに対する原告の主張は、末尾添付の原告の準備書面記載のとおりである。

第五、証拠関係

証拠として、原告代理人は甲第一号証(裁決書)を提出し、被告代理人はその成立を認めた。

理由

一、原告の(一)および(二)の事実、並びに本件裁決において認定されている事実関係自体については、当事者間に争がない。

二、本件の主たる争点は、本件衝突が原告の過失に基くか否かの点に存するところ、原告は、その主張の如き捕鯨操業規約を援用して自己に過失がなかつた旨主張するので、先ずその当否について判断する。

訴外大洋漁業株式会社、同日本水産株式会社、同極洋捕鯨株式会社の三社は、昭和二四年四月、右各会社の代表者および右各会社所属の砲手代表者の協議により、捕鯨操業の秩序維持と危険防止の目的をもつて、捕鯨操業規約を締結し、これを関係者に周知させていたこと、同規約は第二条に、「抹香鯨発見に関しては発見船は直ちに無線電信により放送するものとす、」第三条に「抹香鯨群を発見したる場合は発見船を権利船とし、権利船が現場に到着の上追尾開始してより一時間以内は他船は至近の距離において追尾或は発砲出来ざるものとす」と規定し、さらに第六条に「同一鯨を各船同時に発見したる場合は汽笛又は信号旗及び無線通報により他船に発見の意志表示を最初に行いたる船を権利船とす」と規定しており、従来の慣習と相まつてこの規約の上から、発見鯨が一頭である場合には、時間に制限なく、発見通報船に捕獲の優先権が認められ、また、権利船以外の船は至近の距離において追尾、追越、発見など権利船の追尾捕獲を妨害する行動をとつてはならないものとされていたことは、いずれも当事者間に争がない。ところで海上衝突予防法(本件は昭和二八年法一五一号による改正法施行前に発生した衝突事件であるから、旧法を適用すべきである。以下、本件において予防法とは旧海上衝突予防法を指称する)の規定と比較検討するも右規約および慣習は、なんら予防法の精神に牴触するところなく、その他公序良俗ないし強行法規に違反するところは認められないから、右規約および慣習はこれを有効と解すべきである。しかして本件衝突は、文丸の船長である原告、並びに相手船である拓南丸の乗組員が、それぞれ右各船の所有者たる前示大洋漁業株式会社および日本水産株式会社(いずれも前示捕鯨操業規約の契約当事者)の使用人として操業中に発生したものであることは、本件弁論の全趣旨に照らし当事者間に争がないものと認められるから、右操業については、文丸の船長である原告および拓南丸の乗組員が前示操業規約および慣習に拘束せらるべきことは当然といわなければならない。

次に、当事者間争のないところによれば、本件衝突の経緯は次のとおりである。すなわち、本件衝突発生の当日たる昭和二八年一一月二二日、文丸は前記漁場において探鯨に従事中、午前一〇時五〇分頃左舷正横近く四海里ばかりの地点にまつこう鯨一頭を発見し追尾に移つたところ、右舷正横近く二海里ばかりのところから、拓南丸も右鯨を追尾しはじめたのが認められたので、文丸は前記規約に従い、「まつこう鯨一頭発見追尾にかかる」旨無線電信により放送した。一方拓南丸は、文丸とほぼ同時刻頃前記まつこう鯨を発見しこれを追尾しはじめたものであるところ、すでに文丸が発見放送をして追尾中であることを知つたが、文丸に遅れて発見放送をなした上、鯨を最初に発見したのは自船であるから自船に捕獲の権利があるとして追尾を続行した。そのうち前記鯨が水中にもぐつたので、両船はいずれも鯨のもぐつた附近に至り速力を落して旋回しながら鯨の浮上するのを待機していたが文丸の漁ろう長岩本松之助は拓南丸も附近に来て旋回中であるのを認め、かつ拓南丸も文丸に遅れて発見放送を行つたことを聞き、拓南丸に対し無線連絡で追尾をやめるよう要請したが容れられず、両船とも互に捕獲の権利を主張して譲らなかつた。次いで同日午後〇時四二分頃、文丸の左舷船首一、〇〇〇メートルばかり、拓南丸の正船首よりわずかに右舷一、〇〇〇メートルばかりの地点に、前記鯨が浮上したので、両船は、いずれも直ちに機関を全速力にかけ時速約一二海里の速力で右鯨に向つて追尾を続行した。その際文丸は左舷正横前ほぼ三点の方向一、〇〇〇メートルばかりの地点に、また拓南丸は右舷正横前二、三点の方向一、〇〇〇メートルばかりの地点に、それぞれ相手船がその鯨を追尾して来るのを知つたが、両船ともその後の相手船の動静に深く意を払わなかつた。しかして文丸においては岩本漁ろう長が砲座につき発砲の機をうかがい、原告が船橋頂部で専ら鯨の動向を見守り鯨が北北西方に一時間二海里ばかりの速力で移動するにつれて漸次針路を右方に転じながらこれを追い、同時四四分半頃、鯨に近づいて機関を半速力、続いて微速力に落し、同時四五分少し前、鯨との距離三〇メートルばかりとなつたとき機関を停止すると同時に発砲し、もりが命中したので、捕鯨の定法にならい右舵一杯とした。そのときはじめて原告は、左舷正横近く四〇メートルばかりの所に迫つていた拓南丸に気付いて衝突の危険を感じ、相手船に対し「危い」と叫んだだけでなんら措置する暇がなく、同時四五分拓南丸の船首は、ほぼ南西に向首した文丸の左舷側中央部に後方から約六点の角度で衝突したものである。一方、拓南丸においては、前記の如く浮上した鯨を追尾するに当り、漁ろう長吉田恒一が砲座につき、船長村野孝志が船橋で専ら鯨の動向を見守り、鯨の移動するにつれ漸次針路を右方に転じながらこれを追い、同時四五分少し前、鯨との距離七〇メートルばかりとなつたとき機関を微速力に落し、続いて停止し発砲態勢を整えているうち自船に先んじて文丸が発砲し、そのときはじめて村野孝志は右舷船首四〇メートルばかりの所に迫つていた文丸に気付いて衝突の危険を感じ、左舷一杯全速力後退を令したがその効なく、前示のとおり文丸と衝突したものである。当時天候は曇で、南の軟風が吹き海上は穏かであつた。

以上が当事者間に争のない本件衝突の経緯である。(なお当時における両船の航行状況および鯨の位置関係が、被告の別紙衝突模様図記載のとおりであることは、原告において明らかに争わないからこれを自白したものとみなす)。しかして以上の事実によれば、文丸は本件鯨の発見につき最初に放送をしたのであるから、前示捕鯨操業規約および慣習に従い優先的にこれを追尾捕獲し得る権利船に該当し、拓南丸は右権利船たる文丸の追尾捕獲を妨害してはならない義務を負つていたことが明白である。されば本件衝突については、右規約および慣習を無視して本件鯨の追尾を強行した拓南丸に過失があつたものと解すべきことは当然であるが、しかし、未だそのことだけで当然文丸が無過失であつたと断定することはできない。けだし権利船といえども衝突の防止につき注意義務一切を当然免除されるものではないし、また、衝突につきたとえ相手船に過失があるにしても、右衝突は両船の共同過失に基くものと解される場合もあり得るからである。それ故、文丸の船長たる原告に過失があつたかどうかについては前示捕鯨操業規約および慣習のほか、なお本件に顕われた一切の事情を勘案してこれを判定することを要するものといわなければならない。

三、次に原告は、「本件において衝突のおそれの発生したのは午後〇時四二分であり、その時から本件衝突に至るまで、拓南丸は文丸を右舷に見る関係にあつたのであるから、拓南丸は予防法第一九条により避譲義務があり、他方文丸は同法第二一条により従前の針路および速力を保つべき権利と義務とがあつたものである。されば本件衝突は拓南丸が右規定に基く避譲義務を怠つたことに基くものであり、原告の行動は右規定に適合しなんら過失のなかつたことが明白である」と主張するのに対し、被告は、本件は予防法一九条、第二一条を適用すべき場合に該当しない旨主張するのである。よつてその当否につき按ずるに、予防法第一九条その他同法中航法に関する規定(但し航法に関する規定中、非常緊急の措置を認めた同法第二一条但書および第二七条の規定については暫く別論とする)は、専ら二隻の船が通常の方法により特定の針路を航行する場合を予想し、これら二隻の船の間に衝突の発生することを防止する趣旨で定められたものであることが看取できるのであり、結局これらの規定は、二隻の船が既定の針路速力を保つて進行すればやがて一点に会し、衝突の危険のあることが予測される場合に適用を見るべき規定であると解するを相当とする。しかるに前示本件事実関係の下においては、文丸および拓南丸の両船は、水中に隠顕出没しつつ不規則的に移動する一頭の鯨を追跡するものである関係上、本来その針路および速力は、目標である鯨の動きに応じたえず変動を免れない不特定な性質のものであり、かつ前示捕鯨操業規約および慣習によれば最初に鯨発見の放送をした船が権利船であつて、他船はこれを避譲すべき義務を負うものとされているのであるから、かかる場合は予防法第一九条その他同法中航法に関する規定が予想する場合とは全く前提を異にし、これらの規定は本件に適用することを得ないものというべきである。(しかして、予防法中の航法に関する規定の適用を見ない場合においては、他に特別の規定のないかぎり通常の船員の知識、経験と慣行、並びにその時の特殊な事情により必要とされる注意を払つて危険を防止すべきものであることは、法律上自明の理に属し、予防法第二九条は、かかる一般的義務のあることを当然の前提として注意的に設けられた規定である。したがつて結局本件においては、両船の行動については、前示の如き捕鯨操業規約および慣習、その他予防法第二九条に記載された船員の一般的義務を基礎として律すべきものである)。よつて、本件につき予防法第一九条、第二一条の適用があるとする原告の主張は、法律上是認することを得ないものである。

四、次に進んで、本件衝突が原告の過失に基くものであるという被告の主張(前掲事実摘示第三の(三)および末尾添付にかかる被告の準備書面記載の主張参照)について検討する。

(1)  当事者間に争のない前掲事実関係によれば、文丸の船長たる原告らは拓南丸の動静に深く意を払わなかつたものであり、したがつて文丸の見張りは到底十分であつたものと認めることはできない。しかしながら、本件においては、前説示のとおり文丸は法律上優先的に本件鯨を追尾捕獲し得る権利を有していたのであり、拓南丸は文丸のため避譲し、右鯨に対する文丸の追尾捕獲を妨害してはならない義務があつたのである。しかも当事者間に争のない前掲事実関係によれば、拓南丸は文丸がさきに鯨発見の放送をして追尾中であることを知りながら、文丸に遅れて発見の放送をなし追尾を続行していたので、文丸は拓南丸に対し、無線連絡で追尾をやめるよう、さらに要請をしておいたものである。それ故、かかる事実関係の下においては、たとえ拓南丸が一応自船に鯨捕獲の権利があることを主張して譲らなかつた事実があり、かつ原告は拓南丸が文丸との距離約二〇〇メートルに迫りながら依然追尾を続行している事実を視認し得べき状況にあつたとしても、原告としては、その際、拓南丸が最後の瞬間には違法な追尾をやめ文丸を避譲するものと信じても敢て過失といえない関係にあつたものと認め得るから、かかる状態におかれていた原告が被告主張の如き避譲の処置を講じなかつたことは、未だこれを過失と断定するに足りないものというべきである。のみならず、もし右時機に原告が被告主張の如き避譲の処置を講ずべきものとすれば、他に別段の事情の認められない本件においては、原告は、自船が今まさに捕獲に至ろうとする眼前の鯨をみすみす逸するに至り、かえつて法律上違法な拓南丸に対しこれが捕獲を譲らなければならないような結果ともなり兼ねないのであつて、この場合、かかる措置を原告に要求するのは難きを強いるものというの外なく、したがつてこの点からするも、原告が被告主張の如き避譲の処置を講じなかつたことは、未だこれをもつて法律上の過失となし得ないものというべきである。

(2)  なお被告は、原告が拓南丸の注意を喚起するため汽笛を吹鳴するのが相当であつたものの如く主張するけれども、仮りに原告がかかる措置を採つていたとしても、前記の如き本件事実関係の下においては、拓南丸がこれによつて当然避譲の義務を履行し、その結果本件衝突が発生するに至らなかつたものとは、にわかに断定し難いものがある。それ故、原告が汽笛を吹鳴しなかつたことと、本件衝突との間には未だ因果関係があつたものということはできない。のみならず、捕鯨船は、すでに鯨との距離が数百メートルに接近したときは、極力自船の所在を鯨に気付かれぬようひそかに行動する必要のあることは、経験則上明白であるから、原告が被告主張の如き汽笛を吹鳴しなかつたからとて、未だこれを過失と目することはできないものである。

(3)  以上要するに、原告が被告主張の如き避譲の処置を講じなかつたこと、および汽笛を吹鳴しなかつたことは、未だ原告において過失の責があるものとは断定し難く、また前記説示と対照すれば、本件に顕れたすべての資料によるも原告の見張りが十分でなかつたことと本件衝突との間に、因果関係の存在を認めるに足りない。他に本件衝突が原告の過失に基くものであることを肯認するに足る主張立証はない。

五、以上説示のとおり、本件衝突が原告の過失によるという事実は結局その証明が十分でない。されば、本件衝突が原告の過失によるものであることを前提とする本件裁決は違法であつて、右裁決中原告に関する部分は取消を免れないものである。よつて原告の本訴請求は正当であるからこれを認容すべきものとし、訴訟費用につき民事訴訟法第八九条、第九五条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 牛山要 判事 田中盈 判事 土井王明)

原告の準備書面記載の主張(前掲事実摘示第四の(二)参照)

原告は更に次の通り陳述する。

一、避譲の処置をとるべき時機及び方法

被告は昭和三十五年三月十日附準備書面の二において、避譲の時機及び方法と題して、原告(文丸船長)が臨機避譲の処置をとるべき最后の時機は零時四十四分半ごろ、両船間の距離約二百メートルに迫つたときで、この時機を失した後では、どのような処置をとろうとも、両船の大きさや運動力などから見て、衝突は免れないものであること明らかであると主張しているも、之は文丸や第二拓南丸のような捕鯨船の旋回圏が如何に小さいものであるかを確かめずに出された誤まれる結論である。

文丸の旋回試験の記録によれば、右舵一杯で船首を六十度右え曲げ第二拓南丸と平行にする場合の

所要時間 二十秒半

前方移動距離 百二十メートル四

右方移動距離 三十五メートル八

でこれを被告提出の衝突模様図に照らせば、このときの両船舷側の間隔(相手船の四十四分半の針路延長線をとる)が船の長さの約一・三倍となるから、零時四十四分半ごろは、未だ被告が右に述べたような最后の時機でないこと極めて明瞭である。

況んや文丸が右舵一杯だけでなく、これと同時に機関を全速后退にすれば、もつと短時間短距離で右回頭し、船の長さの二倍位の間隔をもつて第二拓南丸と平行にすることができる理であるから、被告の前記主張の誤まれること一層明らかであろう。

二、以上述ぶるところは、被告のように両船の航法上の権利義務を不問に附し、且つ相手船第二拓南丸が四十四分半のときの針路のまま進んだものとしての結論であるが、本件両船の関係は、予防法第三章の航法規定(本件の場合は主として第十九条、第二十一条)をもつて律すべきであること、既に原告が繰返し述べた通りでこの場合相手船第二拓南丸は十分余裕のある時機に文丸の進路を避くべき義務を負い(第十九条)、他方文丸(原告が船長)ではその針路速力を保つべきことが義務づけられており(第二十一条)、只両船が間近に接近して、第二拓南丸の動作のみでは、衝突を避け得ないと認めたときに、初めて臨機の処置、即ち衝突を避けるために最善の協力動作をなすべき義務が生ずるのである(第二十一条但し書)。然るに被告提出の衝突模様図によれば零時四十四分半のとき第二拓南丸の位置から両船針路の交点迄は約百八十五メートルあり、そのとき文丸と略同型の第二拓南丸が左舵一杯をとれば、文丸と船の長さの二倍余の間隔をもつて無事替るから、零時四十四分半のときは未だ文丸が第二十一条但し書に所謂衝突を避けるための協力動作をなすべき時機でないこと明らかである。

三、文丸のような針路速力保持船(権利船と云う)が右に述べたような最善の協力動作をなすべき時機は、計算上は一時点であるが、実際に船を指揮する船長に対し、正しくその時点に臨機の処置をなすべきことを求めることは不可能であり、殊にこのようにせつぱつまる迄追いつめたのは、義務船が権利船の進路を適時に避けなかつたためであるから、この場合権利船の協力動作に多少の遅速、特に遅れがあつても寛大に取扱えと云うのが従来の学説判例の一致した正しい見解である。このような見地からしても、零時四十四分半を最后の時機とする被告主張の失当であることが明瞭と考う。

四、零時四十四分半は鯨捕獲の優先権を有する文丸船長(原告)が、まさに発砲しようとして速力を緩め、目前の鯨に全神経が注がれていたときである。而してこの現象はすべての捕鯨船の船長に必然と認められるから、その船長の過失を判断するに当つては、このことをもある程度考慮に入れて(所謂 FISHERMAN-LIKEに)判断すべしと云うのが英国の判例であり、極く妥当な考え方である。そうでなく被告のように零時四十四分半頃既に臨機の動作をなすべしとすれば、それまで優先権をもつて追尾して来た数百万円の眼前の獲物をみすみす失うことになり捕鯨者にとつてこれ程忍び難いことはないであろう。固より衝突は人命に関することであるから、他船に対する見張を十分にすべきは勿論であるが、人命に異状のない場合に於ては当然右の事情をも斟酌すべきであるのに被告の裁決がこの点を考えず、一般船に対すると全く同様の考えをもつて臨んでいるのは甚だ失当であり、従つてその裁決に対しては到底左袒することができない。

被告の準備書面記載の主張(前掲事実摘示第三の(三)参照)

本件衝突における原告の過失について、被告は、更に具体的に左のとおり陳述する。

一、危険予見の時機

午後零時四十二分少し過ぎ、両船が船首を鯨に向けたとき原告は、相当の注意をもつてすれば、衝突の危険を予知し得たのである。すなわち、原告は、相手船がそれ以前から鯨捕獲の権利を主張して譲らず、浮上した同一の鯨に向かつて現実に追いはじめたのはわかつていたのである。そして、文丸が船首を鯨に向けたとき、鯨までの距離は約千メートルであつて、しかも、相手船を左舷正横前ほぼ三点千メートルばかりに認めているのであるから、相手船と鯨との距離は、三角形の関係でおよそ千メートル弱であること及び相手船が文丸とほぼ同型船で速力にも大差がないと考えられるから、両船とも、全速力で航走すれば鯨までわずか二、三分間で達することは、海技従事者である原告には容易に判断することができるのである。鯨の移動する方向や速力などは予め知ることはできないけれども、両船が鯨の移動するのにつれて、その方向に針路を変じつつ追尾するのであるから、鯨の移動模様如何によつては、両船が接近して衝突の危険が生ずることは前述の諸状況から、原告として予め知り得たのである。更にその後時間の経過につれ、相手船が追尾を断念しないことはいよいよ確実となり、両船が針路を変じつつはあるが、その接近模様からみて、衝突の危険性がますます増大することも容易に知り得たのである。

二、避譲の時機及び方法

零時四十四分半ごろ、両船間の距離約二百メートルに迫つたときが、臨機避譲の処置をとるべき最後の時機であつたのである。すなわち、自船から鯨までの距離は百七、八十メートル、相手船から鯨までの距離もこれと大差なく、両船間の距離は約二百メートルである。両船の各船首方向の交角はおよそ六点で、直角に近い。(添付図面参照)。そして、両船とも一時間約十二海里(毎分の速力は約三百七十メートルにあたる。)の高速力で進行していたのであり、鯨の位置に達するまでの時間はわずかに三十秒足らずであつて、このままでは両船の衝突は必至であるという危険な事態にあつたのである。このとき、文丸で、右舵一杯、全速力後退とすれば、衝突を免れ得るのであつて、この時機を失した後では、どのような処置をとろうとも、両船の大きさや運動力などからみて衝突は免れないものであること明らかである。もつとも、文丸では、このころたまたま操業上の都合で機関を半速力に落してはいるが、この期に及んでから、そのような緩慢な処置では、衝突を防ぐにほとんど役立つていないのである。したがつて、原告は、この時機までに、機関を後退にかけ、あるいは、針路を激右転し、もしくは、機関と舵を併用するなど適宜避譲の処置を講じなければならなかつたものである。そして、前項で述べたとおり、原告は、船首を鯨に向けた当初からすでに衝突の危険を予知し得たのであるから、それに応ずる心構をもつて事に臨んでおれば、右の時機を失することなく、適切な処置をとり得たのに、相手船に対する注意を怠つたため、衝突を避けるに必要な措置をとる時機を失したのである。このことは、予防法二九条にいう「信号を行うこと、適当な見張をおくこと又は船員の常務として若しくはその時の特殊な事情により必要とされる注意を払うこと」を怠つたものに外ならないのであるから、かような注意義務に違反した原告に過失ありとした被告の裁決には何らの違法はない。

かりに、本件を原告主張のとおり予防法一九条したがつてまた二一条によつて律すべきであるとしても、この場合文丸は予防法二一条但書によつて「何らかの事由により両船舶が間近かに接近したため、進路を避けなければならない船舶の動作のみでは衝突を避けることができないと認めたときは、衝突を避けるために最善の協力動作をしなければならない」のであり、また二七条によつて「運航上の危険及び衝突の危険に十分注意するとともに、切迫した危険のある特殊の状況について十分注意しなければならない」のにかかわらず、これらの義務に違反したことに帰着するのである。

したがつて、いずれにしても原告には予防法違反の過失があつたのであるから、被告の裁決には何ら違法はないものというべきである。

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